先週の日曜日にU君を誘って御講へ参加した。
U君にとっては勧誡を受けてから初めての御講。
俺も勧誡を受けた後は1回だけ参加できなかったが
それ以外は毎月御講に参加している。
御講とは正確には「御報恩御講」というらしい。
法華講員として活動家になる予定は皆無だが
大御本尊・大聖人に報恩感謝の気持ちで御講に行っている。
初めて参加したときは何をするんだろ?って思ったが
勤行唱題をしその後ご住職の法話を聞いておしまい。
至ってシンプルである。
時間にして1時間ほどだ。
今月はその後に「成人を祝う会」というのをやっていたが
時間の都合でそちらには参加せずに帰ってきた。
さて、U君の初御講の感想はというと
「普通」だそうだ。
これはいい意味での「普通」ということである。
U君が言うには、創価の会合は世間からずれている感覚だが
お寺の御講は普通に感じられた。とのこと。
つまり、創価は異常だがお寺は普通。ということらしい。
ああ、なんとなくわかる気がする。
俺が初めて学会の座談会に参加したときの
あの違和感。異常感が確かに御講にはない。
学会の座談会と言えば、勤行・唱題のあと
いきなり「学会歌」である。
軍歌調のうたを皆で手拍子しながら歌い
しかも代表者が立ち上がって扇子をもって踊ってる。
最初からコレなので、もういきなりついていけない。
その後に信仰とはあまり関係のなさそうな話を功徳だと言ったり
聖教新聞を啓蒙できました。とこれまた信仰とは関係なさげな話
そしてその発表の度に何故か大拍手。
そしてこちらからは何もお願いしていないのに
「○○さんが来てくれています」と紹介され
「何か一言お願します」と事前打ち合わせもないまま話を振られる。
「○○と申します。よろしくお願いします」と
当たり障りのないように自己紹介するしかない。
(なんでよろしくお願いしなければならないかわからんが)
そしてようやく大聖人の御書の話が始まったと思っら
みんなで大百蓮華を読んでオシマイ。
(え?他に解説とかないの?)
その後幹部の話と言えば、大作センセの話を延々と話しだす。
この間ざっと1時間半。いや~長かったぁ。
早く終われ~終われ~と思いながら
俯いて畳の目を数えたたっけ(笑)
多分、創価の座談会に初参加した人ならば
俺と同じように感じる人が多いと思う。
これって、U君の言うようにたしかに異常だよ。
今どき、カラオケボックスとかスナック以外で歌とか歌わないよ。
ましてやカラオケもないんだぜ。
(注:時々CDで学会歌流すときあり)
しかも扇子もって指揮とか、現在の日本でそんな人学会員以外に見たことない。
正直活動し始めた時に何人かの友人に座談会でてもらったけど
全員、2度目はなかった。
もちろん座談会に来た友人は全て入会しなかった。
(それでも聖教新聞とかは付き合ってくれていたが)
まぁ、俺も連れて行く前から薄々ヤバイとは思っていたが
当時は何も分からなったし
何よりも友達でも誘っていかないと一人じゃとても耐えきれない(笑)
せめて外部の友人が来ている時くらい
ワンパターンの式次第をやめて対話でもすればいいのに
融通がきかないというかアフォというか
いつもの通りに「濁悪のぉ~この世いくぅ~がぁかぁいの~」と始めるのから堪らない。
その時点で知らない人は「ヤバイ」と本能的に感じるんだな。
そりゃ折伏なんて決まりませんよ。
参加者は「変な集団の会合に連れていかれて囲まれた」って思って当然です。
そんな浮世離れした集まりが「楽しい」と思うのは
オツムのネジが何本か外れている人でしょう。
活動家になった後は、座談会には絶対に外部の友人は連れていなかったなぁ。
決まる折伏もダメになります。
座談会ってのは、活動家の活動家による活動家のための集まりですね。
まぁ創価の会合は全てそうなんだけど。
それに比べれば、御講は全く普通とU君が言うのも頷けます。
勤行唱題は普通の人には物珍しいかもしれないが
ご住職の法話は、普通の人が聞いても違和感はありません。
教学マニアには多少の物足りなさがありますが
それでも毎回の法話の中で得るものはありますね。
無理矢理何か一言話をさせられるこもないし、
扇子持って歌に合わせてご住職が躍ることもありません(笑)
今から思うと、創価の座談会ではなく
お寺の御講に友人を連れて行けば一人くらい入信したかも?とも思う。
(一人はその後別の宗教しているし)
話を聞く方も、寅さんにでてくるタコ社長みたいなおっさんが
興味のない爺さんの自慢話をするよりも
それなりに修行を積んだ、ご僧侶が
仏教の話をしてくれるほうが退屈しないんじゃないかな。
なんにせよ、「普通」が一番ですね。