伝教大師云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり、天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」等云云、安州の日蓮は恐くは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す三に一を加えて三国四師と号く
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今年最初の座談会御書は「顕仏未来記」の最後の一節です。
さぁ、創価活動家さんはこの御文で
どのような講義をするのでしょうかね~
だいたいは予想できますが、
今年も私は「創価教学じゃない」解説をしていきたいと思います。
最初に、伝教大師・秀句から引用された「浅きは易く深きは難し」を説明します。
これは今回の一節の少し前の
◆但し今夢の如く宝塔品の心を得たり
にかかっています。
「浅きは易く深きは難し」とは「宝塔品の心」ということで
この「宝塔品の心」とは宝塔品の偈分に書かれている六難九易をもってとかれた
「此経難事」(この経は持ち難し)の心です。
本文の丈夫の心とはこの経を持つ心ですから「仏の心」というわけです。
さて、では「此経」とは何か?もちろん釈迦文上の法華経ではありません。
日寛上人は依義判文抄で「此経難事」等の文について次のようにご指南されています。
◇此経難持より無上仏道に至る三行の文は即ち是れ本門の本尊なり
そうです。本門本尊ですね。そして続けて
◇三大秘法総在の本尊を明かすなり、
総在の本尊とは題目・戒壇の功能を具足する故なり。
亦は一大秘法の本尊と名づく
三秘総在の御本尊。またの名を一大秘法の本尊である。と。
一大秘法の本尊とは、創価が捨てた戒壇大御本尊以外にはどこにもありません。
(「ある」という学会員さんは挙手して理由を述べてください)
そこを踏まえて六難九易を簡単に現代風にアレンジすると
創価の財務を何億円もするのは簡単だが
大御本尊に1円のご供養するは難しい。
聖教新聞を何万分も啓蒙するのは簡単だが
大御本尊を一言でも語るのは難しい。
創価のコピー本尊に何十時間題目あげるのは簡単だけど
大御本尊に一遍のお題目を申し上げる方が難しい。
大作センセを師匠と尊敬するのは簡単だけど
大聖人をご本仏として尊敬するのは難しい。
総じて、創価信心などというパチモンを信じるのは簡単だけど
大聖人仏法というホンモノを信じるのは難しい。
こんな感じでしょうかね。
その難しい大聖人仏法を受持することが
それが「宝塔品の心」であり「丈夫の心」であり「仏の心」なのです。
それと、あと1点。
◆三に一を加えて三国四師と号く
ここね。創価はここに大作センセとか創価学会とかを入れたがる。
「現代では四に一(大作センセ)を加えて三国五師だ」
なんていう奴が絶対にどこの組織にも一人はいるが
「三国四師」というのはあくまでも大聖人の外用の面から述べているだけであり
釈尊や天台・伝教と大聖人は同等ではない。
釈尊については
◆釈尊程の仏にやすやすと成り候なり(新池御書)
天台伝教に関しては
◆夫れ天台大師は昔霊山に在ては薬王と名け今漢土に在ては天台と名け日本国の中にては伝教と名く(立正観抄)
と言われているように
あくまでもご本仏たる大聖人と
他の三人とは全く違った立場・存在なんですね。
よってこの
◆三に一を加えて
という部分は、文底で読むときには
三と一の相対である。と理解して読まないといけません。
「3」に「1」を加える。のではなく
「3」と「1」を比べる。
もっというと「3」を「1」で打ち破る。
そのように捉えてください。
「三国四師」と大聖人が言われたのはあくまでも対機説法なのです。
それが今の創価の連中は分からないから
こともあろうか、ここに更に大作センセを加えようとするわけです。
このアフォさ加減はまさに「浅い教え」に執着する故です。
ともあれ、創価を退会できる人も
いまはどうしても退会できない人も
「丈夫の心」をもって今年も1年信心をして行って欲しいと願っています。
創価の活動に時間や金を使うより
大御本尊に一編の題目を申し上げるほうが
どれほど素晴らしい事か。身をもって体験しましょうね。