創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

2年前の体験談

2年前の5月。正確には2015年5月8日に

このブログで「大悪起これば」という記事を書いた。

記事の内容は、俺の身の上に

良くない出来事が起きた。という事を書いた。

当時はそれが何かを具体的に書かず

そしていままでその件について記事を書かなかったが

今回ちょっとした事情があり、唐突ではあるが

2年前の体験談を書かせてもらうことにした。

2年前の3月。俺は癌の告知を受けた。

胃癌と大腸癌のダブル宣告である。

その記事を書いた5月8日は、

胃がんの手術を4月の初めに終え

大腸がんの手術を1週間後に控えていた時である。

2015年5月のこのブログ記事の更新日を見てもらうと分かるが

途中2週間程度ブログ更新がない日がるのだが

そこが手術・入院していた期間だ。

子供のころから病気らしい病気は、

おたふくかぜに水疱瘡・風疹それとインフルエンザくらいの俺にとって

癌の告知。しかも胃も大腸もという

ダブル告知をされても最初は全然ピンとこなかった。

ドラマとかではガン告知されて、ガ~ン・・みたいなシーンを見るが

いざ自分がその場になると、至って冷静というかまるで他人事みたいだった。

ところが日が経つにつれどんどん不安になってくる。

「もう長く生きられないのか?」

「家族や会社はどうなってしまうのか?」

「今度の手術は成功するのか?」

「全麻なので目が覚めなかったらどうしよう」

などなど色々なことが頭に浮かぶわけだ。

嫁の顔を見れば悲しくなり

母の顔見れば悲しくなり

息子の顔を見れば悲しくなり

もう泣き叫びたい毎日。

生まれて初めて「死」というモノをリアルに身近に感じた。

その時の恐怖というか不安というかは言葉では表現できない。

何事もない時は、「生命は永遠」とか

「生と死は一体不二」なんて言ったり学んだりしているものの

いざ自分がそうした場面に出くわすと、

情けない話だかそんなものぶっ飛んでしまう。

まだ死にたくない。まだ死ねない。と。

毎日、御本尊に色々と想いをぶちまけながらの唱題。

「何でこんな目に合わないきゃいけないのですか?」と文句言ったり

「まだ死にたくありません。どうか助けてください」と懇願したり

他人の幸福を祈る。なんてのは平常時の話で

こんな時に世界平和もへったくれもない。

とにかく御本尊にすがる思いで唱題した。

この当時、どこから俺の病気の件を嗅ぎつけたのか

俺を敵視する創価活動家は口々に

「学会に敵対したから罰が出た。ざまぁみろ」と言いあっていたそうだ。

(のちには「俺死亡説」も流布された)

俺もどうして病気になってしまったのか御本尊に聞いてみた。

いろいろ考えたが、「創価を批判したから罰が出た」

これだけは「ない」と確信していた。

大御本尊を捨てた創価を批判して罰がでるなら

大御本尊を捨てた方が功徳がでる。ことになってしまう。

もしそうならば大聖人様は本仏どころか大魔王になる。

それだけはどう考えても「ありえない」のである。

だとすると、この病気はむしろ創価(悪)を

責めた功徳でなんだと思えてならなかった。

それ以外に今(当時)俺がガンになる理由など考えられなかった。

◆各各随分に法華経を信ぜられつるゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがねをよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし、石はやけばはいとなる金はやけば真金となる、此の度こそまことの御信用はあらわれて法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ(兄弟抄)

悪を責めることによって過去の謗法が顕れたと。

であるならばここで死ぬことはあり得ない。

ここで俺が死んだら、創価の連中の思う壺だ。

それでは大聖人が邪教の者どもに負けることになる。

そう、これこそ転重軽受なのだと。

もし、創価も批判せず大御本尊を受持せずいたら、

未来にこれ以上の苦しみが待っていただろう。

実際に健康診断を受診したのも自主的ではない。

あの時に健康診断をしていなければいまでも受診していないと思う。

そうならばガンであることを知るのは更に進行が進んでからということになる。

そんな思いで日々唱題していると

いままで何十回も読んだ御書の御文の断片が

不思議と次々と頭に浮かんでくる。

浮かんできた御文を唱題後に御書で確認する。

◆病なき人も無常まぬかれがたし但しとしのはてにはあらず、法華経の行者なり非業の死にはあるべからずよも業病にては候はじ、設い業病なりとも法華経の御力たのもし、阿闍世王は法華経を持ちて四十年の命をのべ陳臣は十五年の命をのべたり(聖人知三世事)

◆病あれば死ぬべしといふ事不定なり(窪尼御前御返事)

◆若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即ち消滅して不老不死ならん(太田入道殿御返事)

◆然りと雖も宿縁の催す所又今生に慈悲の薫ずる所存の外に貧道に値遇して改悔を発起する故に未来の苦を償うも現在に軽瘡出現せるか(太田入道殿御返事)

◆しばらくの苦こそ候ともついにはたのしかるべし(上野殿御返事)

などなど。

「そうか。こういうことなんだ」と思ったら

もうどんな結果でも潔く受け止めようと。

それは「諦めの心」ではなく、「決定の心」と言うべきかな。

◆ただ一えんにおもい切れよからんは不思議わるからんは一定とをもへ(聖人御難事)

◆とにかくに死は一定なり、其の時のなげきはたうじのごとし、をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ(上野殿御返事)

◆なにとなくとも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人にわらはれさせ給うなよ。(兄弟抄)

これらの御文に行き当たり

何があろうとも大御本尊を信じぬく。

決して卑怯で臆病な態度は見せない。

と心を決めることができた。(もちろん時間はかかったが)

最近、教学の事を書いているが

ほんとうに「いざ」という時には

題目と御書の二本立て、で行くべきである。

創価の幹部や大作センセの指導はどんなに素晴らしいもであったとしても

所詮は人師の論から出ないのである。

大御本尊を信じていながら思い寄らぬ病気や不幸に遭遇するのは

それは業病であるのだからご本仏以外に根本的に治せない。

(医療で治らないという意味ではないので誤解しないように)

業病の前で人師の指導はむしろ不要である。

ましてやご本仏を捨てた創価の連中の言葉など百害あって一利なし。だ。

◆譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし(種種御振舞御書)

とにかく、唱題と御書。

俺はそれがこの信心の全てだと思っている。

約2年前。俺はそうして「死」の恐怖と不安を断ち切れた。

2年前に癌を宣告され、

◆病によりて道心はをこり候なり(妙心尼御前御返事)

この御文をようやく身で読むことができたのだ。

(この御文をタイトルにしているブログがあるが完全にタイトル負けしててみっともない)

そしてあれから二年。

お陰様で、まだ生きてそして謗法を責め続けることができている。

いまでも定期的に病院で検査をしているが

今のところ再発・転移は見られない。

まぁまだ最低3年は油断はできないが

前述した通り、どんな結果になってもご本仏に任せると決めているので

不安はない。(とはいえ日々完治をご祈念しているが)

ともかく命ある限り、破邪顕正を叫んでいきたいと思っている。

この時の凄い功徳もあるのだが、それは内緒にしておく。

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