創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(29年度7月座談会御書・乙御前御消息)

いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさまじ

青き事は藍より出でたれどもかさぬれば藍よりも色まさる、

同じ法華経にてはをはすれども志をかさぬれば他人よりも色まさり利生もあるべきなり

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今月の座談会御書は「乙御前御消息」

この御書はそんなに長くなく、御消息文で読みやすい

だけど結構といろいろ大聖人仏法のについて書かれていて

日々の生活中でも役にたつ御書なので

ぜひ、全文通しで読むことをおススメします。

さて、座談会で取り上げるのは上記の御文。

いわるゆる「従藍而青」ってヤツです。

「青は藍より出でて藍より青し」ってヤツです。

荀子の言葉を天台が引用したものを大聖人が引用しました。

本来の意味は、弟子が師匠を超えることの例えですが

ここでは、「同じ御本尊でも志(信心)を重ねれば他の人より功徳が出る」

という意味で使われています。

ひとつには、「他人と同じ御本尊」という意味で

もうひとつには、「いままで同じご本尊」という意味で使ったりします。

「他人より功徳ある」とか

「いままで以上の功徳がある」とか

そんな感じですね。

ではここでいう志(信心)とは具体的にはどういうことかというと

◆天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりもなをそむればいよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきはいよいよあをきがごとし(上野殿後家尼御返事)

とあるように、志(信心)とは修行の事を指します。

大乗仏法の修行と言えば、六波羅蜜(または五波羅蜜)なのだけど

大聖人仏法においては「受持」だけです。

(聖教啓蒙とか選挙活動は不要です)

◆未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

とあるように、大御本尊には「六波羅蜜自然在前」といい

最初から六波羅蜜が備わっているので「受持」するだけでいいわけです。

法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり(日女御前御返事)

◆五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏す可し(御義口伝巻下)

とのご教示は、「受持」の一行(一つの修行)に他の修行が備わる。という意味です。

因みにこれを「総体の受持」といい大聖人仏法の修行はこれだけ。

末法の荒凡夫の私には大変喜ばしい限りです。

この総体の受持については、日有上人は「化義抄」で

◇法花経を修するに五の様あり、夫れとは受持、読誦、解説、書写等と云云、広して修するは像法読誦多聞堅固の時節なり、今末法は根機極鈍の故に受持の一行計りなり、此の証人には不軽菩薩の皆当作仏の一行なり、不軽も助行には二十四字を修したまふなり、日蓮聖人は方便寿量の両品を助行に用ひ給ふなり、文を見て両品をよむは読、さてそらに自我偈を誦し今此三界の文を誦し、塔婆などに題目を書写するは受持の分の五種の修行と心得べきなり云云。

とご指南されています。

さて、次に「受持の修業」とは具体的には「何をするのか」というと

日寛上人が、文底秘沈抄で

◇夫れ本門の題目とは即ち是れ妙法五字の修行なり

◇本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり

◇信行具足して方に本門の題目と名づくるなり、何んぞ但唱題と云わんや

とご指南されているように、「本門の題目」の唱題行のこと。

「本門の題目」とは「本門の本尊」を信じて題目を唱えること。

「本門の本尊」を信じる。という「信」と

「題目を上げる」という「行」の両方揃って

「本門の題目」になり

「本門の題目」をあげることが

「総体の受持」になるわけです。

「信」がなければ「ただの題目」ということですね。

では、ここで創価の主張を見てみると

▼「本門の本尊」 としては、「弘安2年(1279年)の御本尊」 も含まれる

といって、大御本尊を「本門の本尊である」と認めているのに

「受持の対象としない」と主張しているわけである。

つまり「本門の本尊を受持しない」と言ってるわけ

これで大聖人仏法を、信仰し行じている団体だ。というわけですよ。

ね?イカレテませんか?

「すべて等しく本門の本尊」ならば

等しく受持しなければいけません。

大御本尊はもとより、身延の真筆本尊も全部受持しなければ謗法だよね。

「受持しなくていい本門の本尊」なんて存在するのですか?

逆に言えば「受持しなくていい本尊は本門本尊とはいえない」でしょう。

一体御書のどこに「受持しなくていい本門本尊があります」と書いてある?

ないよ。そんな本門の本尊なんて。

創価のコピー本尊」は受持しなくていいけど

アレは「本門の本尊」じゃないから受持する必要はないというだけの話。

もちろん身延の本尊も、顕正会の本尊も

本門の本尊じゃない。

だから受持しなくていい。

むしろ受持しないほうがいい。というレベルの話だ。

創価の会員さん、いいですか?

「本門の本尊」を受持しないで題目をいくらあげても

それは、ただの題目であって本門題目じゃぁありません。

本門題目ではないのだから「大聖人仏法の修行」でもありません。

大聖人仏法の修行ではないのだから、利生(功徳)も出ません。

「青」は「藍」からでますが

貴方たちは「藍」ではないもので「青」を出そうとしてるわけです。

もしそれで「青くなった」というならば

それはインチキかもしくは魔の通力なんですよ。

まづは、大御本尊への信を取り戻しましょう。

方便自我偈でもいいから五座三座の勤行をできるだけ実践しましょう。

ご観念文は大切ですよ。創価の御祈念文なんて読んではいけません。

ちゃんと本尊供養・三師供養のご観念をすること。

それが最低限の修行であり

最低限の大御本尊への信です。

その信心をすれば、必ず今まで以上の功徳が出ます。

そういうことが書いてあるのが、今月の御文です。

追伸:大作センセのなし得なかった大御本尊にを捨てるという行動に出た

現在の原田クン以下の学会首脳部のみなさんは

謗法という意味では大作センセを超えました。

まさに従藍而青の弟子ですね。

大作センセもさぞやお喜びのことでしょう。

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