早いもので、もう今日から9月ですね。
我社は8月が決算月なので、
9月というとまた新しい1年の始まり。といった気分です。
先月、絵里子さんから臨終の相(成仏の相)
についてのご質問をいただいていたのですが
回答が遅れてしまって申し訳ない次第です。
今日は、絵里子さんからのご質問の返信を書きます。
といっても、「半眼半口」が「成仏の相」というのが
いつから言われだしたのか?
すみません。知りません。m(__)m
「半眼半口」という言葉は滅多に聞きませんよね?
私がこの言葉を初めて聞いたのは創価で活動を始めてからです。
それまでは「半眼半口」という言葉聞いたことありませんでした。
もちろん御書にも書いてありません。
私が聞いたところによれば
「半眼半口」は多くの仏像の顔に見られる表情だそうです。
確かにそういわれてみると巷で見る
仏像は「半眼半口」で優しい穏やかな顔をしています。
仏と同じような表情なのだから
「成仏の相」と思っても不思議ではありませんが
なんだか「邪宗チック」な気もします(笑)
では、臨終の相について大聖人様はなんと言われているか?
◆臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引の石の如し
善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる
又軽き事鵞毛の如し・なる事兜羅緜の如し。(千日尼御前御返事)
との御文が有名です。(他にも同じような内容が書かれている御書もあります)
ここで言われているのは、「重い」「黒い」のは地獄の相で
「軽い」「白い」のが成仏の相という事になります。
とくに「顔の表情」がどうであったか?という事は言われてません。
それを踏まえて私見を言わせていただくならば
私は「臨終の相」と「成・不成」は関係ないと思っています。
全く関係ない。ということではないかもしれませんが
個人的には、ほぼ関係ないだろうと思います。
臨終の相がそれほどまで重要な法門であるのならば
大聖人様の御書にも、数多く書かれているはずだし
正宗の御歴代もそこに言及いてるはず。
でもそういう感じでもないのでそれほど重要事項ではないと思います。
また、日寛上人の「臨終用心抄」には、
◇一、他宗謗法の行者は縦ひ善相有りとも地獄に堕つ可き事。
◇一、法華本門の行者は不善相なれども成仏疑ひ無き事。
とのご指南があります。
謗法の者は「半眼半口」であっても堕地獄であり
大御本尊様を信じる者は、臨終の相が悪くても成仏する。
ということです。
ですから上記の「千日尼御前御返事」の御文の
「黒い・白い」「重い・軽い」というのは、単に表面上の事を言われたのでなく
その時の生命の状態を言われているのだと思います。
「暗く重い気持ち」で臨終を迎えるのか
「明るく軽い気持ち」で臨終を迎えるのか
それが「成・不成」という事なのだと思います。
また、三世の因果からみても
死んだときだけ「半眼半口」だから成仏した。といのも理にかないません。
◆いきてをはしき時は生の仏今は死の仏生死ともに仏なり(上野殿後家尼御返事)
と言われているように、「死んで成仏」するためには
「生きている時に成仏」していることが前提です。
では、「生きている時の成仏」とはどう言事かというと
同じく「臨終用心抄」には、多念の臨終と刹那の臨終というご指南があります。
◇一、多念の臨終、刹那の臨終の事。
愚案二八に云く多念の臨終と云ふは日は今日、時は唯今と
意に懸けて往生坐臥に題目を唱ふるを云ふ也。
次に刹那の臨終と云ふは最期臨終の時也、
是れ最も肝心心也。
臨終の一念は多年の行功を依ると申して不断の意懸けに依る也
多念の臨終とは、いわゆる「臨終正念」ということで
具体的に言うと、日々大御本尊に信を取り勤行・唱題に励むことです。
刹那の臨終(死としての臨終)は、多念の臨終の延長線にあるのです。
大御本尊に信を取り唱題に励むとき
私たちは常に臨終しているのです。
私たちにとって臨終とは成仏の異名です。
逆に大御本尊をすて誹謗中傷する創価の人達は
日々、堕地獄なのです。
◆我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し(顕立正意抄)
心ある学会員さんは一刻も早く
大御本尊への信を取り戻して欲しいですね。
最後になりますが、私は自分の死相には全く興味がありません。
どうせ、自分では見ることができないし
私の死に顔をみて誰が何と言っても聞こえません。
それよりも、死後に自分が見ることのできる景色の方が重要です。
大聖人様は
◆退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ、
妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならばあら面白や
法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし金の繩を以つて八の道を界へり、
天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、
諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、
我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき(松野殿御返事)
と言われています。
いつか来る刹那の臨終の折には
このような景色をみたいものだと思ってます。
そのためには生涯大御本尊から離れることない
信心を貫きたいと思います。