一念三千の法門なれば
誓願の祈りから
「拡大」は始まる。
題目の師子吼で
一日を大きく勝ち開け!
@@@@@@@@@@@@@
改めまして新年おめでとうごがいます。
今年最初のブログは、「今週の言葉」から
はい。今年も何を言ってるのかサッパリわからない。
それっぽい単語を並べて
なんとなくいいこと書いてるように感じる会員さんもいるのだろうが
俺には、「何適当なこと書いてるんだよ」とか思えない。
理由は冒頭の「一念三千の法門なれば」という言葉だ。
一念三千の法門だから誓願の祈り(題目)
誓願の題目だから獅子吼の題目。
で?
全くこれじゃわからない。
まさか、一念三千の【法門】にするわけじゃないだろう。
「そんなの御本尊に決まってるだろ」っていうのだろうけど
だとしたら一念三千の【法門】でなく
一念三千の【法体】なれば。と書くべきじゃないか。
そもそも、【法門】とは【法体】を知らしめるための【法理】であって
【法門】で説かれている一念三千とは【理】でしかない。
つまり、一念三千の法門そのものは理の一念三千の範疇であろう。
事の一念三千にたどり着くことが
【法門】の【法門】たる所以であり
それでこそ【法門】が活きてくる。
どうも、近頃の学会幹部・活動家は
【法門】と【法体】の区別ができない人が多い。
なので、御本尊を、理の一念三千を事に顕した。と
思っていたり、実際にそのように言ったりする。
しかし、それは間違いっているいるのである。
日寛上人が、
■ 若し当流の意は 事を事に顕す、是の故に法体本是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と 名づくるなり(文底秘沈抄)
とご指南されているように
御本尊とは、理を事に顕したのではなく
事を事に顕した法体なのである。
具体的に言うと、学会のいうような宇宙の法則(理)を事に顕したのでなく
ご本仏の色心(事)の二法を顕したのがご本尊だ。
それ故に、大御本尊を生身の日蓮大聖人と信をとることが
一念三千の【法門】に他ならない。
誓願の題目とは、大御本尊に誓い・願う題目のことをであり
その題目こそが獅子吼なのである。
池田センセに誓ったり願ったりしても
何の功徳もなければ境涯が拡大することはない。
そんなモノは大聖人の仏法でもなんでもない
当然広宣流布でもない。
そして大聖人を悪しく用いれば必ず滅ぶののである。
そのことはご本仏が言っているのだから間違いはないだろう。
といっても、大方の活動家は
池田センセに誓願していることとは思う。
一念三千の法門を学ばない活動家が多いからなぁ。
せめて創価の我見教学に毒されていない会員さんは
きちんと一念三千の法門を学ばれることを願っています。