学会が大御本尊を捨てた事を
拙い創価教学で正当化している
幹部・活動家がリアルでもネットでも大勢いる。
まぁ、本人が何を主張しようと自由だし
その主張の矛盾点をいくら教学的に指摘したとこで
創価教学・池田思想が先に有りきの
幹部や活動家は聞く耳も持たなきゃ
自分で学ぶこともしないから
所詮、内部アンチが学会を貶めてる位の
低レベルの事しか言えないのだろうけど
【本当に大御本尊を信受しなくて良い】のか?
まぁあんたたちはそれでいいのだろうが
そんなことを、他の会員に言って大丈夫なのか?
心が痛まないのか?
大聖人に申し訳ないと思わないのか?
そして何よりも思うのは
もし大御本尊を信受しないことが謗法だったら(謗法だけど)
自分たちが他の会員に言ってきたことや
やらせてことに対する責任はどう取るつもりなんだ?
その時になって、信心は自己責任。とでも言うつもりなのか?
己一人ならば、創価教学に騙され
謗法を犯し無間地獄に落ちても自己責任で済む。
大御本尊を捨てようが何だろうが勝手だ。
でも、他の会員を道連れにするのはやめたほうがよい。
「謗法の大石寺の本尊は信受しても功徳がない」
それは、絶対に本当のことなのか?
それは、100%間違いないことなのか?
それを、我等凡夫が絶対に100%と言い切って良いのか?
それを、絶対に100%と言い切れるほどあんたたちは信心を知っているのか?
そしてもし間違いならば責任を取れるのか?
幹部・活動家諸氏はそのことを自問して欲しい。
因みに俺は、怖くて他人にそんなことは言えない。
凡夫だからわからない。だから
「謗法の地にあるご本尊には功徳がない」というよりも
「謗法の地にあっても大御本尊には功徳がある」といいたい。
なぜなら、大御本尊の功徳がないと言えば謗法の可能性はあるが
大御本尊に功徳があると言えば謗法の可能性はないからだ。
どちらなのか凡夫には分かる術はない。
だとした賭け事と同じだ。
大御本尊に功徳なし。にかけた場合もしそれが間違ったいたら大謗法となる。。
対して大御本尊に功徳有り。に賭けて間違ってたとしても功徳がないだけで謗法にはならない。
どっちがいいかは比べるまでもないだろう。
大御本尊を信受しないと言う側も
聞かされる側もそのへんをよ~く考えて見て欲しい。