尸毘王のはとは毘沙門天ぞかし。(兄弟抄)
むかしシビ王(シビ族の王様)というとても慈悲深い王様がいました。そんなシビ王のことを見ていた帝釈天と毘沙門天はシビ王の慈悲心を試すために、毘沙門天は鳩に帝釈天は鷹に変身し鷹が鳩を追いかけます。そしてまず鳩が助けを求めてシビ王の懐に逃げ込みます。それを木の枝の上で見ていた鷹が鳩を渡すよう王に求めます。シビ王は、「私は一切衆生を救う誓願を立てているのでこの鳩は渡せません」というと、鷹は、「では私は一切衆生のうちに入らないのですか?私はここのところ何も食べていないので空腹で、その鳩を食べなければ死んでしまいます。そんな私を王は見捨てるのですか?」といいます。鳩の助ければ鷹は死に、鷹を助ければ鳩が死ぬ。この究極の選択に対して、シビ王は自分の股の肉を切り取り鷹に与えるという解決策を鷹に提案します。すると鷹は、「それならば鳩と同じ重さの肉が欲しい」と要求します。そこでシビ王は秤で鳩の重さを測りますが、不思議なことに鳩はどんどん重くなっていきます。それに従ってシビ王もどんどん自分の肉を削いで秤に乗せていき最後は瀕死の状態になりながら自分自身が秤の上に乗ります。その時に鷹は帝釈天の姿に戻り「そんなに苦しんでいるのに後悔はないのですか?」とシビ王に問うと、王は後悔どころか喜びでいっぱいですと答えます。それを聞いた帝釈天はシビ王を元の姿に戻したのでした。冒頭の御文は池上兄弟の信心に反対する父親に兄弟の信心が試されているのだと大聖人は御指南されているのです。この説話を聞いて私はまず、王も弱者である鳩も、強者の鷹も全ての命は等しいということを思います。「いのちと申す物は、一切の財の中に第一の財なり。「三千界に遍満するも、身命に直するもの有ることなし」ととかれて、三千大千世界にみてて候財も、いのちにはかえぬことに候なり。」(白米一俵御書)と御書にある様に、命は誰にとっても等しく尊いものです。これは人間同士に限らず、人間の命も他の生き物の命も等しく尊い。だから無駄な殺生はしていけない。仮に相手が真っ黒でテカテカ光るGであっても無駄に殺めてはいけないと思います。もうひとつは自分が立てた誓願は命がけでやり遂げる。守り通す。という仏法者としての姿をこの説話から学べます。私達は「誓願」という言葉を軽く使いますが「誓願」した以上はシビ王の様に命を賭けるというのは少し大袈裟な表現ですが、「我が門家は、夜は眠りを断ち昼は暇を止めてこれを案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔ゆることなかれ。」(止暇断眠御書)位の覚悟は持ちたいと思います。これは仏教に限りません。「何かを為す人」は程度の差はあれでも寝食を忘れてその「何か」に没頭しているものです。「何か」に対してマニアックでストウィックでなければ自分自身の誓願を最後まで貫くことはできないものだと思います。
■創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ
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