当ブログではしばしば「仏力」「法力」の話をします。御本尊は仏力・法力が備わってこそ本物で、その仏力・法力の根本は戒壇大御本尊であり、その根本に繋がらない創価本尊には仏力・法力が無いのでいくら信力・行力があっても功徳がでないと繰り返し書いてきました。では、仏力・法力とは一体何なのでしょうか?仏力・法力を分かりやすく説明できないかと思索を重ねてきましたが、過日ふと気が付いたことがありました。結論から先にいうと「御本尊の仏力・法力とは御本仏・日蓮大聖人の信力・行力のこと」です。大聖人の唱える処の自行化他の題目が仏力であり法力なのだと得心しました。というのも、いくら示同凡夫の姿を示したといえ御本仏である大聖人の自行化他は成仏の為の修行ではないことは明かです。では、なぜ大聖人は自行化他の修行のお姿を示されたのかと考えたときに、これは大御本尊(大聖人)の仏力・法力の一分を我々に示されたと推測できるのです。『観心本尊抄』に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」と説かれていますが、これを会通すると、「日蓮大聖人の因行果徳は戒壇大御本尊に具足するので戒壇大御本尊を受持すれば必ず大聖人の因果の功徳を譲り受けることができる」と意味になります。日寛上人の『報恩抄文段』に、「信は是れ行の始め、即ち本因妙。行は是れ信の終わり、即ち本果妙。」との御指南がある様に、大聖人の因行果徳とは、大聖人の信力・行力であり、具体的には大聖人の一期にわたる自行化他に亘る唱題なのです。【法力=大聖人の信力=大聖人の心法】、【仏力=大聖人の行力=大聖人の色法】という方程式が成立する事に気付き長年思索を重ねていた事案にようやくひとつの答えを見つけることができた気がします。さて、大聖人の仏法は、仏力・法力と信力・行力が冥合すると処に功徳が顕れる四力成就の信心ですが、我々の信力・行力はどのような姿であるべきかと考えると、大聖人が『四菩薩造立抄』で、「総じて、日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は、日蓮がごとくにし候え。」と御指南されているように、法力・仏力が大聖人の信力・行力であるならば、私達もまた大聖人と同じ信力・行力を発揮することが四力成就の条件だと思います。勤行唱題や教学の研鑽は当然の事、やはり折伏・破折をしていかなれば、「大聖人と同じ」にはなりません。現代の日本においては、折伏をしたからと言って生命の危険に晒される心配はまずありません。それなのに折伏をしないのでは、御本尊の法力・仏力を余すことなく受け取ることなど出来ないと思います。幸いなことに私は折伏・破折は好きなので、これからも折伏行に精進していきたいと思います。
■創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ
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