龍年光は石田次男同様に創価学会二代会長の戸田城聖の門下である。龍の入信は1946年(昭和21年)10月で池田大作より1年ほど早い。創価学会に男子部が結成された時には、龍は第4部隊の部隊長であり、その龍の下で第1班長だったのが池田だ。因みに第2班長は第4代会長の北条で、その北条の下に第5代会長の秋谷がいた。その約半年後に、池田が第1部隊長となり、北条は第2部隊長、第3部隊長に森田(後の理事長)がなって、龍を含む4人は『花の四人組』と呼ばれたそうだ。しかし、池田が会長に就任とすると龍は池田から徹底的に干された。その理由は龍が池田を会長に推戴しなかったからである。石田の時同じように龍を都議会議員にして創価学会の中枢から追い出した。そして創価学会組織の人事面でも、池田に媚びへつらう者たちを次々と副会長に格上する一方で龍はとうとう副会長になることはなかった。ある時、北条と森田が龍に池田は会長なのだから「池田先生」と呼んで欲しいと言ってきた。龍としては「先生」といえば戸田だと思っていたから抵抗があったようだが、北条と森田の説得に負けて、「池田先生」と呼ぶことを了承したらしい。その直後に池田は龍に向かって、「今日からオマエとギアを合わせよう」と言ったそうだ。龍はその時の池田の勝ち誇った顔の冷笑と「オマエ」という言い方に腹ワタが煮え返る気持ちだったと述べている。しかし、原島崇・山崎正友・藤原行正などが池田に反旗を翻した時には龍は何も発言しなかった。それは池田に心服してたのではなく、都議会議員の職を失うこと恐れたという事も有っただろうが、池田ではなく戸田の弟子いう自負があった龍とって、戸田の作り上げた創価を離れることは戸田への裏切りという想いがあったのだろう。そんな、龍が反池田に転じたのは、平成2年に池田が本幹スピーチ等で宗門批判を開始した頃で、平成2年10月に龍は創価を退会し高照山妙光寺の法華講に所属する。そして平成3年に池田創価が宗門攻撃を開始すると、龍は『週刊朝日』の3月1日号に池田への手紙という形で「キミはどこまで狂うのか」という記事を出したとの時を同じくして、龍は平成3年3月3日に龍は日顕上人当てに1通の手紙を携え大石寺に登山した。そこには池田が戸田の遺言に違背した大謗法者であると書かれ、池田と戦う龍の決意が書かれている。『週刊朝日』が発売されると、矢野絢也の時と同様に創価学会・公明党幹部が龍の自宅に恫喝に来るが、龍は同誌で連載(池田大作堕地獄への道)を始めた。龍の元には現役創価学会員から続々と池田批判の声が寄せられ、龍の記事によって創価ではなく日蓮正宗を選んだ創価学会員も多くいたと思われる。その後も、龍は創価学会の脱税疑惑や、創価と公明の政教一致問題など追求したが、2007(平成19)年3月25日 、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。山崎・福島・原島などの池田門下の人間と、石田・龍といった戸田門下では池田批判のニュアンスが微妙に違う。池田門下は心のどこかに「池田に世話になった」という後ろめたさみたいなモノを感じるが、石田や龍はあくまでも自分たちの師は戸田であるという自負があるので、宗門に敵対することは戸田に敵対することだと知悉している。そして池田が入信した頃からずっと池田を見てきたので池田の虚飾や虚言に騙されない。石田・龍の池田批判の良いところは、池田の下衆な人間性への批判よりも戸田を裏切り宗門を敵対視したことに対する批判がメインなところだと感じる。石田や龍こそが戸田の意志を受け継いだ弟子だろう。池田が戸田から引き継いだのは組織だけで、後は戸田の威光を利用しただけだ。そんな石田や龍とは真逆に、戸田の弟子でありながら池田に媚びてその軍門に下った愚かな連中もいるがその話はまた別の機会に譲ろうと思う。
■創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ
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