言語学の書籍を読んでいると必ず登場するのが、近代言語学の祖と呼ばれているスイスの言語学者・哲学者のフェルディナン・ド・ソシュールです。ソシュールが生きていた時代の言論学は、コトバがどのように変化してきたかというコトバの歴史を研究する『比較言論学』が主流でした。それに対してソシュールはコトバとは何か?という事を考えたのです。それは当時の言語学界では画期的なことだったのです。ソシュールが出した答えは、「言葉は記号である」という事です。例えば「ねこ」という記号の構成要素は、「ネコ」という音と「猫」という意味ですが、ソシュールは「音」を【シニフィアン(能記)】、「意味」を【シニフィエ(所記)】と呼び、どんな記号にも能記と所記が備わっていて、この能記は所記と結びついてる必要はないという記号の性質を、「記号の恣意性」と呼びました。つまり、「ネコ」という呼び方(発音)と、「猫」という動物の間には何の関連も無く、たまたま「ネコ」という音が日本では「猫」という動物を示す記号になったというのがソシュールの理論です。勿論ソシュールが正しいという訳ではなくひとつの見解ですが、それまでの比較言論学からの大きな転換になった理論ですから、近代言語学の祖と呼ばれるのも頷けます。私はこのソシュールの理論には批判的です。正確には日本人の言語に対する考えには馴染まない理論だと思います。ソシュールの理論は、アルファベットの言語であり、古代からのロゴス中心主義が根付いている西洋思想に基づいた理論で、中国などの漢字圏の国ではなかなか理解できないはずだし、日本人はその中国よりも更に複雑な言語を持つ国に生まれ育っているので、ソシュールの言う「記号の恣意性」に違和感を持つと思います。そもそも「ネコ」という音が「猫」という動物だと皆が共通認識を持つためには、日本人全員の同意が必要です。全員一致で「猫」を「ネコ」と発音することに決めたということは、「猫」を「ネコ」と発音するのは恣意的ではなく、そこに必然性があったと考える方が自然だと思います。世間でもよく「名は体を表す」や「名前負けしてる」などと言いますが、日蓮大聖人は、「 名は必ず体にいたる徳あり」(十章抄)と仰せのように、シニフィアンとシニフィエは一体であるというのが仏教ですから、ソシュール理論には賛同しかねます。さて我々日蓮正宗信徒が唱える「南無妙法蓮華経」は、三世の諸仏と菩薩・諸天が成仏を決定するコトバとして同意した記号で、その発音は「ナンミョウホウレッゲキョウ」です。身延派の題目の「ナムミョウホウレンゲキョウ」ではありません。「猫」は「ネコ」と発音するから通じるのであって、「ネゴ」「ナコ」では通じないのと同様に、身延派の題目の発音では諸仏・諸天には通じませんね。
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