前回、天璋院篤姫の記事を書きましたが、その天璋院を折伏したと思われるのが今回の南部信順公です。南部信順(なんぶのぶゆき)は薩摩藩八代藩主・島津重豪(しまずしげひで)の十三男として、1814年(文化11年)に生まれました。兄姉の三女の茂姫は、徳川11代将軍・家斉の正室で、広大院と呼ばれています。将軍の家斉と信順は義兄弟になります。信順は、1838年(天保九年)に八戸藩の養子となり、1842年(天保十三年)に八戸藩第九代藩主になります。その翌年に日蓮正宗・仏眼寺僧侶の玄妙房日成師が弘教のために八戸を訪れ阿部喜七宅に滞在しました。
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阿部喜七は日蓮宗の本寿寺の檀家でしたが、玄妙房の説法に触れ日蓮宗から富士大石寺へ改宗しました。これを契機に八戸では富士大石寺の信徒が続々と誕生していきます。それに焦った本寿寺は、富士大石寺の信仰を「切支丹類似の富士門流」として藩庁に訴え、これが『八戸法難』へと繋がっていきます。
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そのころ江戸藩邸にいた信順は、出入りの高野周助という常泉寺の信徒に折伏を受けて、富士大石寺の信仰に入りました。信順が入信したころに、薩摩から将軍家へ輿入れした篤姫が江戸に登ってきました。そこで信順のよって篤姫は富士大石寺の信仰に入ったという事が通説になっています。総本山51世・日英上人が嘉永六年九月一日に、青森県八戸の信徒、渡辺重兵衛に宛てたお手紙(八戸市玄中寺所蔵)には、①南部八戸藩・第九代藩主南部信順公が日蓮正宗富士大石寺の信仰をしたいたこと。②南部信順公を折伏したのは高野周助だということ。③高野周助は、喜佐野(きさの)という信順の侍女の責任者も折伏したこと。④喜佐野が三十七の大厄の年に大病を患ったが、日英上人より御下附された御秘符を戴き、7日もしないうちに全快したこと。⑤その現証を見て南部信順が自身の居間に御本尊を御安置して信心に励んだこと。⑥八戸法難の時に没収された御影や御本尊が返されたこと。などが書かれいます。出入りの業者が殿様を折伏するという高野周助の勇気も素晴らしいですが、自分より身分の低い高野周助の話を聞いて大石寺の信仰に入った南部信順公もまた素晴らしいと思います。とかく自分より立場や年齢が高い人に対して折伏するのは特に若い人は尻込みしがちですが、高野周助のように誰に対しても正しいと思っている事を堂々と(礼節を失わずに)話していくことが大切ですし、自分より立場や年齢が低い人のいう事も、そこに理が有れば謙虚に耳を傾ける南部信順のような態度も大切ですね。これは信心に限りませんが、信心をしているのならば尚更そのような人間になるよう努力したいですね。
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