創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

富士大石寺の信徒列伝①天璋院篤姫

前に日蓮大聖人御在世の御信徒列伝を書きましたが、今回から大聖人滅後の大石寺の御信徒の紹介記事をシリーズで書いてみたいと思います。第1回目の今回はNHK大河ドラマにもなった天璋院篤姫です。(あの頃の宮崎あおいは可愛かったなぁ)天璋院天保六年(1835)に、父・薩摩藩主島津家の一門・今和泉領主・島津忠剛と母・島津久丙の娘・お幸の間に誕生します。19歳の時に島津斉彬の養女になり篤姫と改名します。さらに22歳の時に近衛忠煕(ただひろ)の養女となって篤子と改名し、その年に徳川第13代将軍徳川家定に輿入れします。天璋院の入信は「不思議の御因縁」で富士大石寺の信仰をするようになったと日英上人は記しています(日英上人「時時興記留」)。「時時興記留」に入信の経緯は詳しくは書かれていませんが、天璋院の祖父が薩摩藩9代藩主・島津斉宣で、その弟の八戸南部藩へ養子に入り9代藩主となった南部信順が既に入信をしていたという事実があるので、天璋院からみると大叔父にあたる信順による折伏の縁での入信だったことは間違いないと思われます。家定の正室になったものの、24歳の時に家定が亡くなり(天璋院と号し従三位に叙任されます)。26歳の時に「桜田門外の変」がありました。不安な社会情勢の中、天璋院は年若い子を抱え、外様大名の娘という身分など深い苦悩を抱えてた時に、総本山51世日英上人に御祈念を願いでて、日英上人はその願いを受け入れ、3月14日から51日間にわたり、朝4時間、昼4時間、夜4時間の一日12時間唱題をされたことが記されています。もちろんその間に天璋院自身も必死に祈っていたことは想像に難くありません。日英上人は「一昨年将軍様には御急病にて御他界遊ばされ、誠に御台様の御愁歎言語に尽くし奉り難く、若君様には御幼年に入り為され、彼れ是れ以て御尊労の中に、去年御炎上上の後も何角と御心掛りの御こと共も在らせられ、之に依り当春三月厳しく御祈祷申し上げる可く御旨仰せを蒙り、三月十四日より閏三月及び四月五日に至り都合五十一日、朝は暁七つより五つ時迄、昼は九つ時より夕七つ頃迄。夜は六つ時より四つ時迄。弥よ丹誠を抽し必至の御祈念申し上げる処に不思議の御利益を以て追々世上穏やかに相成り御互いに有難きことにあらずや。」(時時興記留)と記されているように、この祈りによって天璋院は不思議な功徳を得たことでしょう。まさに、「よき師と、よき檀那と、よき法と、この三つ寄り合って祈りを成就し、国土の大難をも払うべきものなり」(法華初心成仏抄)とはこのことだと思います。幕末から明治維新にかけて激動の時代を生きた天璋院は、明治十六年(1883)に 四十九歳でその生涯を閉じました。

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