創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

富士門流大石寺の問答史③【霑志問答】

霑志問答は、大石寺第52世日霑上人と重須本門寺日志との書簡による往復書簡による問答で、別名両山問答ともいいます。この問答は、文化6年5月に日量上人が著わした『富士大石寺明細誌』(宝冊)に対し日志が邪難を述べてきたことが切っ掛けです。日志は元要法寺で、重須に来る前の明治8年6月13日に「要法寺沙門」として『明細誌』を批判してます。その3年後の明治11年8月22日に日志は重須本門寺第34世として晋山し、同年12月5日、前書に加筆して、大石寺第55世日布上人に四十九箇条からなる疑難を呈しました。当時は、富士大石寺北山本門寺・京都要法寺・下条妙蓮寺・小泉久遠寺保田妙本寺西山本門寺伊豆実成寺の八本山は、勝劣派より分離して日蓮宗興門流と公称し、教部省の指揮のもと八山から一名、管長を推戴して一宗を統轄する状況でしたが、日胤上人はこのような処遇に承服せず、大石寺の僧衆は八山協和を是認しませんでした。日志は当時、権少教正の地位にあり、富士正統の大石寺の意識の基は宝冊に原因があると思い、宝冊を破することを考えたのです。日志の問難に対し日布上人は同月17日に返答しましたが、国家からなどの外圧を予想して一往、宝冊を「門外不出とする」と付加しました。同月25日に日志から長篇の問難あり、日布上人との間に2~3回の往復問答がありましたが、日布上人の健康状態が芳しくないこともあり、日霑上人は御隠尊だった日布上人に代わって明治12年1月3日、に日志の問難のうちで放置し難い、日興跡条条、戒壇の大御本尊、御灰骨等に関することを返答しました。1月12日に日志から第一回目の反論があり、霑志問答はそれぞれ四往復がありました。明治12年1月26日、2月7日に日霑上人は書を日志に送り邪難を破折しましたが日志からの返答はありませんでした。しかし2月7日に日志からの二回目の問難が寄せられていたので、日霑上人は四回目の破折書を送りました。主な内容は、本門寺の寺号を名乗れるのは大石寺ある事と、大御本尊への疑難への破折です。対して日志から3月15日、さらに5月15日に書が届けられましたが、日霑上人は全く無視されたようです。9月23日に日志は日布上人に、大御本尊への九箇条の疑難に一つでも答えてほしいと懇望しました。日布上人は25日の返状に「二冊とも自分が預かっていて、日霑上人は四月中、金沢へ下向されていて不在である」と記しています。日霑上人は既に論義を尽くして決着がついていると考え、あえて反論せず地方巡教に出向いたのです。文書問答は勝敗が分かりづらい面があります。それは敗者が敗北を自覚しづらいからであり、故に日霑上人は日志の屁理屈の論に対して敢えて筆を執るまでもないと判断したようです。現在の創価学会員や顕正会員との対論は対面でも文書でも相手は絶対に負けを認めないので対論そのものにあまり意味がありませんが、創価顕正会員は対面法論だと直ぐにボロが出るから対面の方がビジュアル的に勝敗は分かりやすいです。ただネット等の文字による対論は証拠が残るので、本人同士の決着が付かなくても、それを読んだ人がジャッジをして勝敗を決めるので意義はあると思います。平成の宗門と創価の往復文書を読むと、大聖人仏法に照らせば創価学会側に義理はない事がよくわかります。現役創価学会員はもう一度、宗門と創価学会の間で交わされた往復文書をよく読んでみるべきです。もちろん法華講員も然りです。

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