創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

富士門流大石寺の問答史②【砂村問答】

江戸後期の大石寺信徒の永瀬清十郎は宗学抜群で諸国を弘教しました。清十郎は尾張での弘教後は会津若松で論陣を張り、身延、什門、隆門等、日蓮宗の在家、出家を一堂に集めては破折していました。それを聞いた者達は対応策を種々相談しましたが、三年程前に日量上人が当地へ下向された際に、さんざんに折伏されて閉口した経験があったのでなかなか名案が浮びませんでした。しかしこの時、幸い江戸・砂村に住む一致派の信徒・篠原常八という者が会津に来ていたので、彼と清十郎を問答させて富士派を打ち負かそうという計画を立てました。そうして常八は「糖屋」という屋号をもつ身延信仰の常八と清十郎は問答することになりました。双方五名ずつの立ち会いを認めて問答が始まりましたが、本迹一致は大僻見、延山無間をとの主張に常八は全く反論できず清十郎の圧勝に終わり、街には一致派は敗れ富士大石寺が勝ったという評判が流れました。翌日、常八は仲人を立てて問答を再三申し込みましたが、清十郎は取り合わず二本松に向いました。常八は永瀬清十郎を佐渡、越後、奥州まで追いかけ、清十郎が二本松に逗留していることを聞いて探し出し再び問答することになりました。問答は本迹問題、本尊論、袈裟・衣の色に及びましたが、常八は全て破折され富士の教義に感服し最後は落涙し、清十郎から「二品読誦」や「二箇相承」などの大石寺の教えを請う状態となります。この問答を機に常八は大石寺に入信し、江戸・砂村に帰って折伏に励んで講中をつくっていきました。そんな常八に身延派は法論を申し込んできて、常八は、敗者は改宗する約束の元に法論を受けて立ちました。身延派は富士派と問答できる人を50日余り探し、成瀬玄益という者がその任に当たることになりましたが、玄益は以前に三度程法論に負けている者でした。しかし砂村の身延の信者はそれを知らず“宗祖大聖人の再誕なるべし”と尊信し、両国の柏屋という茶屋で問答することになります。問答には、常八の折伏の親の永瀬清十郎も出向き、6~7百人の聴衆が集まりましたが、わずかの問答で世話人一同が成瀬玄益の負けを宣言しあっけない幕切れとなり、この結果、江戸中に富士大石寺が勝って身延が負けたという風評がながれました。砂村の身延信者は、清十郎は無理でもせめて常八を論伏し恨みを晴らしたいと企み身延の信者の梶柔之助に接触し、清十郎が不在の所を狙って柔之助は砂村に人を集め大石寺批判をします。これを聞いた常八は清十郎に代わって柔之助に法論を申込み4日後に法論することになります。法論の当日になると清十郎がひょっこり帰ってきます。常八が清十郎と同道して来たので身延派は色を失い、柔之助の完敗で終わりました。篠原常八はこの問答を契機に一層信心に励むようになりました。この法論を「砂村問答」といい、永瀬清十郎が天保六年十月に記録しています。また法論の詳細は『富士宗学要集』に収録されています。富士大石寺の僧俗には定期的に異流義破折の達人が出現します。近代では永瀬清十郎・妙寿日成貴尼・広布院日奘贈上人などに加え戸田城聖も信力不足ですがそのうちの一人に挙げられます。現代では、妙観講の大草一男講頭や妙相寺の樋田昌志氏なども、好き嫌いは別として異流義破折の達人といえると思います。これは富士大石寺の宗風によるものでしょう。創価顕正会からはこうした人材が出てきませんし、いまでは法華講と対論する勇気すらありません。我々、法華講員は富士大石寺に息づく折伏・破折の精神を受け継ぎ、次世代に残していきたいですね。

小説・砂村問答

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