今経の受職潅頂之人に於て二人あり。一には道、二には俗也。道に於て復二あり。一には修学解了之受職、二には只信行之受職也。俗に於ても又二あり。道に例して知るべし。 比丘の信行は俗の修学に勝る。又、比丘の信行は俗の終信に同じ。俗の修学解行は信行の比丘の始信に同ず。何を以ての故に。比丘能く悪を忍へばなり。又、比丘出家之時、分、受職を得く。俗は、能く悪を忍ぶ之義有りと雖も、受職之義無し。故に修学解了之比丘は仏位に同じ。是れ即ち如来之使いなれば也。
今月の創価座談会御書も過去に講義したので過去記事をリンクしておく(たまには違う御文やれよ)。という事で今月も創価学会員の為の御書要文講義をする。今回は『得受職人功徳法門抄』からの要文だが、この御書は創価御書全集には不掲載かもしれない。創価信心には無関係な御書だし、何よりも今の創価にとって会員に読ませるの不都合な御書だからだ。【受職】とは、受職潅頂(じゅしきかんじょう)のことで、簡単にいえば【御受戒(御授戒)】のことだが、破門後に入会した創価員は御受戒を受けていない(受けられない)ので、本抄は創価にとって非常に不都合で会員の目には触れさせたくない御書なのだ。御書根本が聞いて呆れるが、それが創価インチキ教学というものである。創価員は自誓受戒とか受持即観心とか言って受戒不要と強弁したり当抄を偽書と宣うかもしれないが、それは牽強付会の詭弁だ。御受戒については別記事で解説したいと思うが、題号のとおり本抄は受職した人の功徳が説かれている内容になっている(つまり御受戒には功徳があるということ)。当該御文では受戒の人に、道(僧)と俗(在家)の2種類の人がいて、更に受戒には「修学解了之受職」と「只信行之受職」に2種の受戒があり信行之受職よりも修学解了之受職の方がその徳は大きいと仰せである。そして、俗の信心の終わり(俗の信心の到達点)は、僧の信心の出発点であり、僧の信行之受職は俗の修学解了之受職よりも徳が大きいことを示されている。つまり仮に池田大作の信心がどれほど立派だったとしても(無論、池田に信心などないが)、池田の徳は少年得度をした所化さんにも及ばないのである。(牧口常三郎・戸田城聖も同様)また正宗から脱落した青年僧侶改革同盟の元所化小僧どもは、修学解了之比丘にはなっていないどころか、正宗から離脱した時点で、只信行之受職ですらないのである。そして受戒を受けていない創価学会員は、大聖人の弟子でもなければ仏教徒ですらない、ただのカルト教団の信者だ。本抄で大聖人は、「今時之弘経の僧をば当に世尊を供養するが如くにすべし。是れ則ち今経のをきてなり。若し此の師を悪口罵詈し誹謗すれば種種之重罪を受くることを得る也」と受職を得た僧侶を誹謗すれば重罪を受けると仰せである。即ち日蓮正宗の法主上人や御僧侶を誹謗している創価学会員は重罪を受けるにだ。「日顕宗の僧侶は弘経の僧ではない。」と反論する莫迦学会員がいるだろうから、先に言っておくが弘経とは直接的に折伏する事だけを言うのでない。ほとんど個人折伏をしていない池田大作を広宣流布の指導者としている事が好例だろう。このように弘経の僧とは他を正しく教化する徳を持っている人のことである。修学解了之受職の僧侶は我々凡夫と違って自分の成仏を主目的にしていない。それが僧侶の徳である。自分の功徳ばかり祈っている創価学会員如きと僧侶は祈りの根底からして違うのだ。それ故に日有上人は『化義抄』で、「貴賤道俗の差別なく信心の人は、妙法蓮華経なる故に何れも同等なりしかれども竹に上下の節のあるがごとく其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」と、僧俗のケジメを付けられているのである。それを弁えずに僧と俗を全く同じといい僧宝誹謗しているのが創価学会だ。正宗の所化様以下の池田大作、その池田大作以下の創価学会員が法主上人や御住職に対して誹謗中傷するのはまさしく「螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし」(佐渡御書)という愚かで滑稽で哀れな姿に他ならないのである。
■今月の座談会御書▶創価教学じゃない御書講義(2020年8月座談会御書・転重軽受法門) - 創価ダメだしブログ
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