創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

弁惑観心抄(日應上人)要文⑪第3章50節より

其の墨質を尊んで本尊となすにあらず。其の字體を崇めて本尊となすにあらず。尊む所は只だ其の正意のみ崇むる所は只だ其眞理のみ。

第50節は、日守の「戒壇大御本尊は、墨で書かれたものではなく彫刻した本尊だから功力が無い」といちゃもんレベルの疑難に対する、日応上人の破折が書かれている節です。日応上人は、大聖人の御本尊は墨で書かれているからとか字体云々とか相貌・外見で御本尊と崇めているわけでなく、その正意・真理をもって御本尊と崇めているのであると、日守の浅はかな本尊義を破折されています。日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」(経王御前御返事)というのは、墨が重要なのでなく、日蓮が魂が重要なのです。この日蓮が魂というのが、日応上人のご指南されるところの正意であり真理です。日蓮が魂とは大聖人の心法で、これを法魂とも法体ともいい、事の一念三千のことです。私達が御本尊を崇拝するのは御本尊は大聖人の色心二法だからで、大聖人の色心二法を法に約して事の一念三千と呼ぶのです。「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり(御義口伝下)。池田創価の連中は御本尊は宇宙の法則を図顕化したといいますが、「理」である宇宙の法則を図顕化してもそれは「理の一念三千」なのです。あくまでも人(仏)という「事」を本尊として(事として)顕すから「事の一念三千」になるのです。また池田創価は、戒壇大御本尊と書写本尊は相貌が同じだから等しいなどといいますが、其の字體を崇めて本尊となすにあらず、と日応上人が御指南されているように、相貌だけ同じなら良いという訳でありません。大聖人が「ただし、心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず。」(木絵二像開眼之事)と仰せの通り、色法だけ具備していも心法がなければ本尊になりません。そして書写の御本尊は日蓮大聖人が直接認められた御本尊ではありませんから、何等かの方法で大聖人の魂を通わせなければ御本尊にはならないのです。御本尊に大聖人の魂を通わせる法義が開眼なのです。従って開眼は唯授一人の相承を受け、法体を所持している法主上人以外にできません。開眼は法体を所持していなければできませんから、開眼の方法を公開する必要もないので、大聖人も日興上人も御本尊の開眼について御書等で第三者に明示していません。むしろ開眼を悪用されないために秘すのが当然です。我々凡夫は開眼された御本尊が真の御本尊であると信じれば信徒であり、信じなければ不信者であり、開眼不要と我見を言えば謗法者に分別されるのです。よって開眼不要という創価学会員は謗法者であるから、大聖人の信徒は呵責・駆遣・挙処するの必要があるわけです。日亨上人が『化儀抄註解』で、「然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限る」と仰せの様に、創価学会には日蓮大聖人の御本尊に関する権限はその解釈を含め一切ありません。それなのにいっちょ前に正宗を批判してくる。「戒壇大御本尊は物体だからいつかは無くなるから永遠じゃない」といってる創価学会員と、「戒壇大御本尊は墨で書いていない彫刻だから本尊じゃない」と言っている日守は全く同レベルですね。

創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ

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