最近では創価も顕正もすっかりヘタレてきて法華講との法論から逃げまくっていて、たまにそれっぽい話になっても、法門・法義の話はサッパリで無根拠の与太話か低レベルの教学モドキばかりで元広宣部の私としては実に情けなく感じます。日蓮正宗は大聖人・日興上人の意志と行動を引き継ぐ折伏正意の唯一の宗派で、邪義・邪教を破折してきた歴史がそれを証明しています。富士門流大石寺の問答史は『富士宗学要集・問答部』に詳しいですが、シリーズでその概略を時代の古い順にいくつか追っていきたいと思います。初回は史料が存在する最古の問答の【仙代問答(せんだいもんどう)】です。【仙代問答】は、1334年(元弘4年(建武元年))正月7日、重須談所(北山本門寺)の2代・蔵人阿闍梨日代師と大石寺上蓮坊の摂津阿闍梨日仙師との間で、方便品読不読を巡って問答に到ったものです。その様子は、日代師側の日満師が記した問答記録や、日仙師側の日叡師の問答記録に残っていますが、それぞれ自分達が勝利したと記されいます。問者は日仙師で答者が日代師です。日仙師が『薬王品得意抄』を文証として迹門である方便品不読が正しいと主張としたことに対して、日代師は『月水御書』の文証と、宗開二祖が方便品読誦の事実を挙げて不読は誤りだと回答します。日仙師は「それならば迹門に得道が有るか」と質問し、日代師は与奪破の三義から会通を加えます。最終的に二人の問答は、宗開二祖の方便品読誦を否定するのかと日代師に言われた日仙師が閉口しこの場では日代師の勝利で終わりましたが、その後に重須の地頭・石河式部大夫実忠が日道上人に決判を求め、日道上人は代師の「施迹の分には迹門は捨てるべからず」の主張に対して、「施開廃の三つともに迹は捨てられるべし」と日代師の主張も誤りであると決判を下します。方便品読誦については後に日寛上人が所破と借文の意義があると御示しで日道上人はその義を持って二人とも誤りであると判決したのです。この【仙代問答】が原因で日代師は重須を離れ西山に退出し西山本門寺を創設し北山(重須)と反目します。日仙上人もまた讃岐に下向し讃岐本門寺の開祖となります。「此が為に日代上人は重須を擯出せられ日仙上人は亦讃岐に下るの悲境に陥れりと云う」(富士宗学要集)。この【仙代問答】と【東坊地係争】の二つの出来事が、現在まで続く日興門流の分裂の原因となったなったのは非常に残念な気持ちですが、ただ【仙代問答】が方便品読不読を論争する内容だったという点は注目です。日仙師は日興上人の本六で、日代師は新六という二人の高僧が方便品読不読などという現在においては論議にすら上らない内容で問答しているのだから驚きます。「戒壇大御本尊に関する日興上人等の上古の文献がない」といって戒壇大御本尊を否定する輩もいますが、日興上人の弟子の高僧ですら法門に対する理解がこの程度の状況ですから、当時の僧俗が唯授一人血脈相承や戒壇大御本尊に関する法門を理解できない事は容易に想像がつきますし、それ故に日興上人等の法主上人が戒壇大御本尊に関する御指南をしなかったことも当然のことで、相伝書以外の文献に戒壇大御保存等の重要法門が残っていないのも不思議ではありません。「日興上人御跡の人人面面に法門立て違え候。あるは天目に同じて方便品を読誦せず、 あるは鎌倉方に同じて迹門得道之旨を立て申し候。ただ日道一人正義を立つる間、強 敵充満し候」(歴代法主全書)と日目上人の弟子である日尊師が言われているように、日仙師・日代師の法門理解の未熟さを思えば、唯授一人血脈相承が存在していることは明らかなのです。
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