過日、SNSで朝晩に池田大作と一緒にお題目を唱えているという創価学会員の投稿があってリンクが貼ってあったので、リンク先を見てみると池田大作の題目のYouTubeが。どうやらこの動画を流しながら唱題することを、「池田先生と一緒に唱題」と言うらしく創価員にはこういう人が結構いるみたいだ。なんでもこの動画に合わせて唱題すると、「清々しくて元気が出る」とSNSに投稿されていたので、ちゃんとした池田の唱題なのかと思って聞いてみたら・・・
「なんぎょうほ~げんげぎょ~・・・(げほげほ、ジャラジャラ)なんぎょっ⤴️・・」と例の池田大作の【汚ダイモク】が永遠に流れてる動画で笑った。様々な長さのバージョンが用意されているのだが、一番短くて「1,000遍バージョン」みたいだ。約20分もこの薄汚い池田汚ダイモクと一緒に唱題するなんて正気の沙汰とは思えない。SNSの投稿者に、「よくこんな汚い題目で清々しい気分になれますね?」とリポストをしたら、「それは貴方の心が汚れてるから先生のお題目が汚く聞こえるのです。」と返された上に速攻でブロックされた(笑)。え?私がおかしいのか?この池田の題目を、美しいとか清々しいとか感じる人はいるのか?私だってクラッシック音楽とかを聴いて美しいと感じる普通の聴覚・感覚の持ち主だと思うが、いつ聞いても池田大作の唱題は、「汚らしい」としか感じないのは私の方かおかしいのか?ぜひ読者の皆様の意見をお聞きしたい。それにしても、創価学会員って池田大作や創価学会の変な所を指摘すると、すぐに「心が汚い」「心が貧しい」とか言ってくるよね。心が汚いとか貧しいとか一体何を基準にして会ったこともない他人様にそんなことが言うのか分からない。それ以外に反論することが出来ないのだろうけど、語彙力が貧困というかなんというか。今時、誰かに向かって本気で「貴方は心が汚れている」なんていうヤツいる?私の周りにはいないな。それにう〇こをみて「汚い」って言うのは心が汚れているとは言えないと思うんだよ。私には池田の汚ダイモクはう〇こみたいないもので、汚らしいとしか思えないんだな。もちろん、う〇こを見て「清々しい気分になって元気が出る」人もなかにはいるかもしれないけど、唱題行っていうのは修行だから発音やスピードはちゃんとやらないとダメでしょ。創価員は正宗の御僧侶の題目を一度聞いてみると分かるよ。日有上人は、「勤の時、目つかいにより貎の持様、手の持様、ひざの組み様にても其の人の余念を顕すと御沙汰候」(勤行唱題のとき、目のやりどころや姿勢、手の合わせ方、正座のし方、そのすべてにその人の心根が映し出されるのです)といわれ、日亨上人は「題目の唱え方は、身に油断・怠り無きよう、意に余念、雑念無きようにありたい。口より出す声は、早口であったり、粘り口であったりしてはならぬ。落ち着いて、しっかりと尻強に中音に唱えねばならぬ。」と言われている。池田の汚ダイモクは、池田の信心の汚れが声に顕れていると思うのだかどうかな?そもそも、他人の唱題の声を流しながら唱題すること自体が御本尊を馬鹿にしてるだろ。創価本部では池田の唱題のエンドレステープを流しているらしいけど、さっきも言ったけど唱題行は仏道修行だぞ。録音した唱題を流しておけばOKなら10時間唱題も楽勝じゃね~か(笑)。もっと真面目に信心しようよ、学会員さん。池田の題目が清々しく聞こえなくなるくらいキチンと題目あげなよ。あんな汚ダイモク動画と一緒に唱題していると自分も同じになっちゃうぞ。ていうか、池田の唱題に合わせるは色々と大変じゃね?
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