日本の仏教史を俯瞰すると、権力によって保護されたり利用されたり迫害されたりと権力に翻弄された歴史に思えます。そんな日本仏教が一番の危機に晒されたのは、明治時代の【廃仏毀釈】だったのではないでしょうか。廃仏毀釈とは、慶応四年から明治元年までの神仏分離令といわれる一連の布告による「神」と「仏」の分離政策を為政者や市民が拡大解釈し、仏教の施設や慣習を破壊したことをいい、現在でも首を刎ねられた地蔵が残っていたり葬儀を神式で行ったりと当時の名残りが残る地域があります。各地で廃仏毀釈は行われましたが、特に厳しかった地域として水戸・佐渡・苗木(岐阜)・伊勢・土佐・隠岐・宮崎・鹿児島が挙げられます。水戸藩は水戸光圀時代にも廃仏政策を実施しましたが、これは明治の廃仏毀釈とは少し違って仏教そのものを排除するのではなく僧侶のリストラが主目的でした。さて廃仏毀釈の先陣を切ったのは比叡山の麓の日吉大社で、長年に亘り延暦寺に支配され僧侶から虐げられていた神官達が積年の恨みとばかりに徒党を組んで社から僧侶を駆逐し、仏像や経典・仏具を破壊したました。その暴徒のなかには社司に雇われた地元坂本の農民が100人ほどいたと言われています。江戸幕府に保護され既得権益を握ってきた延暦寺に対する地元民もまた神官達同様に延暦寺に反感を持っていたと推測されます。この日吉大社の宗教クーデーターを引き金に廃仏毀釈は全国に拡散されたいったのです。明治5年の「僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事」の太政官布告もまた神仏分離の一環で、僧侶の堕落を誘い仏教の弱体化を図った政策です。こうして廃仏毀釈は明治9年頃まで続き、これにより全国の仏教寺院は定かではありませんが江戸時代の半分になったと言われています。鹿児島県では江戸末期まで1,066箇寺有った寺院が明治7年までには寺院・僧侶ともゼロ(破却率100%)になり、高知県では613箇寺が206箇寺(破却率66%)、佐渡は538箇寺が80箇寺(破却率85%)、隠岐も106箇寺がゼロ(破却率100%)という壊滅的状況になった地域もあります。また奈良・興福寺では五重塔がただ同然で売却されたり、鹿は神仏の使いであるという迷信を払拭するために、鹿狩りをしてすき焼きにされて食べられたりしています。日蓮正宗においても、廃寺になったり参詣者が激減して荒廃する寺院もありました。廃仏毀釈運動はなければ、今の倍以上の数の国宝級の仏像・仏具などは残っていただろうと言われています。このような状況になってしまったのは権力である政府に大きな責任がありますが日本人の信仰心の欠如も見逃せません。そしてその原因は他でもない仏教界側にあり、ある意味では仏教界の自業自得ともいえるでしょう。現在の仏教界を見渡しても葬式仏教・観光仏教と堕した宗派・寺院が大半で、信徒の信仰心を育むという本来の寺院・僧侶の役目を果していません。既存仏教のなかでは、日蓮正宗だけが本来の仏教寺院の姿を維持していると思います。いずれにせよこの明治時代の廃仏毀釈運動は日本仏教史における大きな出来事です。信教の自由が認められた現代において日本政府が廃仏毀釈のような政策を実施することはないと思いますが、世界ではイスラムや中国共産党といった勢力が拡大しています。彼等が日本を牛耳ることになれば仏教も神道も日本から消滅してしまいます。そうならないように日本人は信仰心と愛国心を失ってはいけないと思います。
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