知人に大学の社会学部卒は一人だけいます。その知人と以前飲んだ時に社会学の話を聞いて興味がわいたので少しだけ社会学の勉強してみた。その名の通り「社会」について探求するの学問なのだが社会って広いし空気みたいだし・・社会学というのはなんとも掴みどころがない学問だと思った。そもそも「社会って何だろう?」と問われても普通はそんな事を考えて生きていないし、「こうである」という絶対的な答えもないから何かモヤモヤする学問です(笑)。でも「社会」について考えることは大小さまざまな社会の中で生きていく人間にとっては必要な学問なのかも知れないとも感じる。現在の定説では社会学はオーギュスト・コント(1798~1857)の『実証哲学講義』が始まりだといわれてます。フランス革命後の発展と革命による秩序の破壊の調和と言う問題に取り組んだのが社会学だそうです。日本では、「社会有機体説」「社会進化論」のスペンサーが社会学の創始者と言われています。ところで社会は大きく分けて二つの側面があって、ひとつは普通に個人の人間が集まりに名前を付けた存在。国でも会社でも家族でも規模の大きさに限らず個人の集まりに付けた名前、例えば「トヨタ」とか「鈴木家」を社会とする【社会名目論】。もうひとつは【社会実在論】といって個人の目的や意志とは関係なく社会は存在するという側面です。我々が生きていて感じるのは【社会実存論】の方ではないでしょうか。目的を共有した個人の集団が社会の自然な姿ですから本来であれば社会は構成している個人の目的通りに動くはずなのに、実際は構成員の思ったように動かない。つまり構成員個人の意思とは関係なく社会は存在しているという謎の正体を、①理解②説明(相関関係)③証明(因果関係)④機能分析をして明らかにしようとするのが社会学です。理解は社会学では個人の主観・内面に対する理解のことでこれと対をないているのが相関関係(説明)です。さらに相関関係を深堀して因果関係を追求していき、そして因果関係だけでは説明できない社会現象や社会システムの存在意義(機能)を分析していくわけですね。存在意義のないモノは自然淘汰されるのでこの世に存在するモノは全て存在意義を有しています。それを解明していくのが社会学のひとつの存在意義です。例えば宗教などその最たるもので、これだけ文明・科学が発展し宗教不要論者が増えているのに宗教は社会に存在し続けています。これは宗教が存在意義を有しているからに他なりません。私が思う宗教の存在意義はたくさんありますが、社会学的な見地からその存在義を考察すると社会と個人のギャップ(それこそが社会の謎で社会学の分野です)を埋めるのが宗教であると考えています。社会と個人のギャップが人生における苦悩の大きな原因であると思っています。社会学的に言えば、日蓮正宗信徒が広宣流布をするのは社会と個人のギャップを完全に埋めることが目的で、それは日蓮大聖人の望みでもあります。「法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。」(如説修行抄)。との大聖人のお言葉があるように、広宣流布の暁には全ての人々と社会とのギャップを完全に埋まり、平和とに幸福に満ちた世界(社会)が実現される。その時には社会学は自然淘汰されて不要になることでしょう。
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