最近ではあまり見なくなったが昔は年末になるとTVで毎年のように『忠臣蔵』のドラマが放映されていた。「時は元禄15年12月14日。江戸の夜風を震わせて鳴るは山鹿流の陣太鼓」の名文句の『忠臣蔵』は御存じの通り大石蔵之助以下47人の義士が主君の仇討ちをするといういかにも日本人好みの筋でTVドラマだけでなく歌舞伎や人形浄瑠璃に講談・落語の演目にもなっている。そんな【仇討ち】が大好きな宗教団体が池田創価学会だ。もちろん池田大作の指導が創価学会員をそうさせている。例えば池田は「正義の牧口先生の仇を討ったのは、戸田先生であられた。戸田先生の仇を討ったのは私である。これが師弟である。ここに人間の真髄の姿がある。」(2005.1.22)とスピーチしている。「師匠の仇を討つことが弟子(指定)の責務でありそれが人間の真髄」だと池田は言っているのである。類似の「仇討ち」の関する池田指導はたくさんある。創価で活動したことが人間なら一度は聞いた事あるだろう。このような池田指導は末端に十分に浸透していて、日蓮正宗に対しても共産党に対しても退会者に対しても「池田先生の仇を討つ戦い」と幹部が叫び会員はそれに扇動される。特に男子部にはこの傾向が強い。私も当時の青年部長・谷川や男子部長・佐藤浩の「先生の仇討ち」指導を何度も聞いている。もともと『忠臣蔵』が大好きな日本人は仇討ち=正義と思い込んでしまうが池田の狙いだったのだろう。確かに主君の仇を討つのは忠義としては正しいが「忠」は儒教の範疇でその忠義が仏法と相違していたらそれは仏法者・信仰者の正義と言えない。さて『仇討ち』という思想が仏教に存在するのかと言えば答えは「NO」である。大聖人が弟子檀那に対して「私の仇を討て」と言われている御書はない。法然(勢至丸)は子供頃に父親が夜襲され今わの際に父に復讐を誓うが父に、「その気持ち(復讐)は嬉しいがそれは父の望むところでない。これは自らの業による因果応報なのだ。もしそなたの敵討ちが成就したとしても敵の子は今度はそなたを敵とねらって、敵討ちは幾世代にわたって絶えないであろう。もし父の事を思ってくれるのなら出家して日本一の僧侶となって父の菩提を弔ってくれこれがそなたへの最後の望みだ」と諭され出家したと言われいるし、釈尊は『ダンマパダ』の中で「怨みに、怨みをもってせば、ついにもって休息を得べからず。忍を行ずれば怨みをやむことを得ん。これを如来の法と名づく。」と説いている。池田の『仇討ち』の指導は、「目には目を歯には歯を」のハムラビ法典か「やられたらやり返す、倍返しだ!」の半沢直樹である。つまり池田の指導は反仏法であり、池田は似非仏教徒だということだ。こんな人間を師匠と崇め「池田先生の仇討ち」と称して正宗攻撃をする創価罵活動家もまた仏教徒ではない。もっともそんな池田も死んだのだらもう創価の仇討ちもお終いで次回の総選挙は「池田先生の弔い合戦」と言葉が変わるだろうが、いつまでも似非仏教徒・池田大作のインチキ指導を真に受けて、似非仏教の創価仏法なんて信仰してしてたら後悔するぞ。創価学会の活動なんて時間と金を消費するだけで何の意味もない。そんな無意味なことはやめてもっと人生を有意義に生きてもらいたいものだ。人生は短くはないがそれほど長くもないのだから。
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