賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなりしかるを・ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども天まほり給う事なし
今月の創価座談会御書は『四条金吾殿御返事』別名『八風抄』の御文です。過去に講義したことない御文なので久しぶりに【創価教学じゃない御書講義】をします。実はこの御文は私が任用試験を受験したときに出題された印象深い御文です。と言っても読んだ通りの御文なのですが、人生において私達の心にいつも吹いている八つの風。いい風が4つ(四順)「利・誉・称・楽」、悪い風が4つ(四違)「衰・毀・譏・苦」です。いい風が吹いても傲慢になったり油断せず、悪い風が吹いても卑下したり動揺しない人を賢人といい、そのような人を諸天善神は守護すると言われています。愚人である私達にはなかなか難しいですよね。特に創価学会員はちょっと創価や池田大作を批判されると脊髄反射してしまうから八風に犯されやすい人種ですから尚更です。私たちが八風から身を守る方法は、「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。」(四条金吾殿御返事)との御指南のように楽しい時も苦しい時も唱題をするということですが、創価の場合は本尊が違うので残念ながら題目の力用はありません。お気の毒ですね。さて本抄において金吾が主君・江間氏に対し訴訟を起こそうとしている事を大聖人は、「だいがくどのゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだ、いのり叶ひたるやうにみへて候。はきりどのの事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すままには御用ひなかりしかば、いかんがと存じて候ひしほどに、さりとてはと申して候ひしゆへにや候けん、すこし・しるし候か。」と大学三郎と池上宗仲は大聖人の指導に従い訴訟をせずに良い結果が出たが、波木井実長は大聖人の指導に違えて訴訟を起こし良い結果が出なかったという事例を挙げて金吾に軽々に訴訟をすべきではないと御指導されています。金吾は大聖人の御指導を聞き入れ訴訟せずに信心によって難を乗り越えたことは御承知の通りです。これをもって思うに、波木井実長が後に退転に至ったのは師の指導を聞き入れず自分勝手な判断をする生命傾向があったからだということです。この生命傾向は過去の多くの退転者に共通します。池田大作が退転したのも手継の師である法主上人の指導を聞かずに我見を抱くという退転者の生命が池田の中にあったからで、その傾向は既に昭和30年代から萌芽していた事は池田創価の史実を追えば明確です。創価員は池田大作を人生の師匠としていますが、人生の師匠とは所詮は世法です。日有上人が『化義抄』で、「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く々取り定めて信を取るべし、又我か弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮花経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云ふなり云云。」と御指南されているように、仏法における根本の師匠は三徳具備の日蓮大聖人であり大聖人に繋がる手継の師匠とは御当代の法主上人なのです。池田は「大聖人直結」と言ってますが、「大聖人直結」という信心の在り方は日興門流には存在しません。現に昭和生まれの創価が大聖人と直結することなど事実の上からも理論の上からもあり得ません。現在の創価学会員の信仰はまさに退転の徒・波木井実長と同じで、池田大作は学会員を誑かす民部阿闍梨日向と同じです。仏法の師匠を遺棄する人間を人生の師匠と思ってしまっている事が創価員の一生の・・いや三世の不覚なんですね。仮に八風に犯されなくても非理に戒壇大御本尊を棄て手継の師である法主上人を誹謗する大謗法の創価員を諸天善神が守護することはありません。早く、それに気が付くといいなぁって思ってます。
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