栄西は保延7年(1141)、吉備国総鎮護の吉備津神社の神職・賀陽(がや)氏の子として生まれ幼名は千寿丸といい14歳で比叡山に出家し栄西の僧名を受け以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学び仁安3年(1168)28歳の時に栄西は初めて中国(南宋)に渡ります。禅宗は唐時代に始まり一時弾圧を受けていましたが宋代には国家仏法にもなっていて広まっていました。しかし最初の入宋の際には栄西は天台の典籍を持ち帰り、比叡山天台座主・明雲に献呈しました。文治元年(1185)に後鳥羽上皇の勅により祈雨の修法を行い【葉上】の号を賜り栄西は【葉上房】とも呼ばれます。文治3年、47歳の時に二度目の入宋。天台山で臨済宗黄龍派の虚庵懐敞(こあんえしょう)に師事してその禅の法統を受けました。禅号を【明庵】といいます。建久2年(1191)51歳の時に栄西は博多に一時帰郷し建久5年に禅の布教を目指し上洛するも禅停止の宣旨が下され止む無く博多に戻り興福寺を建てます。その後、鎌倉に下り正治2年(1200)正月、鎌倉の法華堂での源頼朝一周忌法要の導師を務め建仁2年(1202)62歳の時に京都に建仁寺を開き以後禅宗は京都と鎌倉で広まります。晩年は、建永元年・東大寺大勧進職に任じられ承元5年(1211)71歳の時に『喫茶養生記』を著し74歳の時に『喫茶養生記』を将軍・源実朝に献上し、翌年の建保3年(1215)に75歳で寂しました。因みに臨済宗というひとつの宗派はなく栄西は正確には臨済宗建仁寺派の派祖になります。また日本に初めて茶を持ち帰ったのが栄西で『喫茶養生記』には茶の飲み方や効用などが書かれていて茶道の祖ともいわれています。
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