創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

身延日蓮宗の「法論もどき」逃走ロジック。

過日、久しぶりに身延日蓮宗信徒氏とネット上だが対論をした。「身延も法論もできないほど落ちぶれた」といった感想だ。最近の身延の得意技は「偽書」論をカマして逃げていくというロジックで、この身延のロジックを使うヤカラは創価罵活動家や元創価アンチ正宗の覚醒者と自称している自分教の中にも多々見受けられる。そもそも身延のが「偽書」なんていうのはあくまでも身延が認定しているだけで、その「偽書」の認定方法もあくまでも推論の域をでない。先日、ネットでみた身延人は『新池御書』を偽書だと主張していた。その根拠は当抄中に【円覚寺】の文言が存在するから。円覚寺は弘安5年に開山されているので弘安3年に書かれた『新池御書』に円覚寺のことが書かれているのはおかしいという事だが、そもそも開山とは寺院が完成して行うわけで現代じゃあるまし半年や3か月で寺院が完成するわけない。また身延調べでは円覚寺の開山の儀を行った無学祖元という中国の僧侶が来日したのは弘安5年だという事だが、円覚寺の『本朝高僧伝』等の史料によれば無学祖元が日本に来たのは弘安元年でそこから円覚寺の創建が始まり弘安5年に開山の儀を行ったとされているので弘安3年の『新池御書』に【円覚寺】の文言が有っても何の不思議もない。また沼津・松陰寺が弘安二年に円覚寺の末寺として無学祖元の門弟の天祥西堂が建立されているのだから身延人のいう『新池御書』偽書説など可能性の理論(推論)でしかない。それはさて置き私が言いたいのは御書の真偽なぞを持ち出し法門・法義を否定するようなロジックは法論でもなんでもなくて単なる逃げ口上に過ぎないということでつまり御書の真偽など持ち出すようなヤカラは仏教を語る資格はないということだ。そもそもが釈尊直筆の経典などひとつもないだろう。それでも仏教において経論を重んじるのはその内容を重んじているからである。経論(御書)に書かれている内容も理解できないヤカラが法門・法義と言った宗教の分野に口出してくるのは実に滑稽だし、ましてや正宗・法華講を否定したりまた法論するなんて大聖人が

◆当世牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染にも毀るは糞犬が師子王をほへ癡猿が帝釈を笑ふに似たり。(善無畏三蔵抄)

と仰せのごとく、まさに糞犬・癡猿と同様である。確かに大聖人も龍樹著と言われている『菩提心論』を指して、

◆但し此の書は全く竜猛の作にあらず委き旨は別に有るべし、設ひ竜猛菩薩の造なりともあやまりなり(星名五郎太郎殿御返事)

同書は偽作であると偽書論を言っているが、その根拠は今風の身延のロジックとは全く違ってそこの書かれている内容が龍樹自身が書いた『大論』と符合しないからだと言われている。これが正しい『法論』なのである。『仏教』とは『仏の書いた書物(経典)』のことはなく『仏の教えの内容』を言う。よって『法論』とは大聖人が書かれた御書の真偽を問うのではなく、その内容を問う事なのである。大聖人のある御書を偽書というのであれば、そこに書いてある内容が他の諸御書などと比べてどのような齟齬があるかを明らかにすべきある。史料などを持ち出して推論で御書を否定するのは法門に疎い無学匠が法論から逃げるロジックでしかない。法華講員諸氏がもしもこのような無慚な連中とあったら彼らの偽書論などにまともに回答する必要などない。我々信徒は文献学や歴史学を対論しているわけでないのだから偽書論にはあくまで法門の上からその偽書論の根拠を問いただせばいいのだ。しかし、それにしても身延の連中は本当に落ちぶれた。少なくても戦後まもなくまでは身延とはいえちゃんと法門法義で対論していたものだ。正宗との身延の数々の問答の史料もそれを物語っている。仮に正宗に連戦連敗であってもキチンと身延なりの法門法義で対抗してきた。それが正しい信仰者としての最低限の姿勢だと思う。昔の身延僧俗はそうした最低限のことは出来ていた。それがいまでは「これも偽書。あれも偽書。たぶん偽書。きっと偽書。」って松坂慶子の歌のような事しか言えないとは実に情けない姿ではないか。さらにこうした身延の研究成果をネット拾ってドヤ顔で正宗・法華講を論破していると思っている創価民や覚醒者諸君は少しは無知なくせに利口ぶっている己の愚かさに気づいた方がいいだろう。もっともこの手合いは自分自身の信仰に対する正統性(無信仰の正統性)を語ることもなくただ相手を否定・批判するだけでしかも常に敵前逃亡が常套手段なので直接絡むこともないが何が楽しくて仏教もどきを学んでいるのか意味不明である。

 

▼一日「イチ押し」お願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ


創価学会ランキング