創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2022年5月・善無畏三蔵抄)

仮令強言なれども人をたすくれば実語軟語なるべし、設ひ軟語なれども人を損ずるは妄語強言なり、当世学匠等の法門は軟語実語と人人は思食したれども皆強言妄語なり、仏の本意たる法華経に背く故なるべし、日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし禅宗真言宗も又謬の宗なりなんど申し候は強言とは思食すとも実語軟語なるべし

 

今月の御講拝読御書の『善無畏三蔵抄』は別名『師恩報恩抄』といいます。対告衆の浄顕・義浄の二人を通じて師の道善房を正しく導こうという大聖人の師に対する報恩の御心が偲ばれます。善無畏三蔵とは真言密教の師で真言密教は日本では空海弘法大師)の東密(東寺の密教)と天台密教台密があります。一番大きな違いとしては、東密では釈迦と大日如来は別体としますが(顕教の教主が釈尊密教の教主が大日如来)、台密では釈迦と大日は同体と位置付けているところです。御書の中で大聖人がよく言われる「理同事勝」とは台密の教義のことです。本抄では清澄寺が当時は天台宗の寺院だった事から主に台密を破折されています。今回拝読の御文は本抄の最後の部分になります。「強い言葉」(強言)であっても人を救う言葉であれば正しい言葉であり優しい言葉(実語軟語)であり逆に「優しい言葉」であっても人を不幸にする言葉でばそれは誤った言葉であり他人を傷つける言葉であると大聖人は言われています。その基準は仏の本意たる法華経に背く」かどうかです。『三秘抄』に、

法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり

と書かれているように仏の本意とは究竟・三大秘法であり三大秘法は合帰すれば一大秘法の戒壇大御本尊のことですから戒壇大御本尊から離れればどんなに優しく丁寧な言葉であってもそれは妄語ということになります。さて、私達が勤行の時に読んでいる方便品に【言辞柔軟 悦可衆心】(やさしい言葉を使い、人々の心に喜びを与える)という言葉がありますが、今回拝読の御文はこの【言辞柔軟 悦可衆心】の法華経の文を大聖人が会通された御文でもあります。末法の時において人々の心に真実の喜びを与えるのは戒壇大御本尊の事を話すことです。法華経の説かれた釈迦在世の衆生には【優しい言葉】(軟語)を使うのです。何故なら当時の衆生は本巳有善の衆生で摂受によって救われる衆だからです。しかし現在は本未有善の衆生折伏でなければ救われない衆生ですから強く謗法を破していくことが【言辞柔軟 悦可衆心】になると大聖人は御教示されいるのです。とはいえ折伏に当たって誰が相手でも手当たり次第に強い言葉を使えという訳ではありません。強い言葉を使わなくても話を聞いてくれる人もいるし、また友人・知人とは普段の付き合いの中でそうした人間関係をつくればいいのです。そのような人間関係を作るには創価民のように打算と計算で他人に近づかないことです。それでは本当に話を聞いてくるような友人も知人もできません。友人・知人から信頼を失うことを「法難」だといい、友人・知人を「俗衆増上慢」などという創価顕正会員のような人間には法華講員はなってはいけないと思います。ではいつ「強言」を発動するのかというと大聖人仏法を誹謗する創価や顕正民などの大謗法者に相対した時です。そのような者に遭遇した時に「優しい言葉」で対応するのは却って妄言・強言となってしまうのです。こういう連中には大聖人のように、「創価・顕正は無間地獄。お前たちは間違っている」と強く破折しなければなりません。それが彼等に対する慈悲なのです。だけどもデッチ上げやウソ、誹謗中傷はダメですよ。(法華講員さんにはあまりいませんけど)相手が誹謗中傷してきても、あくまでも彼等がいかに大聖人仏法に背いているかを指摘し戒壇大御本尊を教える。それが根本にあればどんな言葉を使ってもいいのです。創価罵活動家には言葉の内容ではなく「言葉使い」を取り上げて批判するトーンポリシングという詭弁を使ってくる連中が多いですが、そんな罵活動家には「ガンガン行こうぜ!」のコマンドで戦うのが私の戦術です(笑)本抄の一番最後はに、

◆当世牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染にも毀るは糞犬が師子王をほへ癡猿が帝釈を笑ふに似たり。

と大聖人が言われています。「牛馬・糞犬・癡猿」ですよ(笑)。でもそれは単なる悪口ではなく、その理由もきちんと説明しています。現代でも「我、賢し」と自賛して大聖人仏法を誹謗するような連中が後を絶ちませんが、所詮は、糞犬・癡猿の類ですから恐れるに足りません。堂々と破折していきましょう。さて、日如猊下は当該御文を引いて次のように御指南されています。

◇大聖人様が、念仏に対しては無間地獄に堕つると言い、あるいは禅宗真言宗に対しては誤りの教えであると厳しく断じているのは、一見すると強言のようではありますが、実には相手を救い、幸せの境界に導くための慈悲の言動であって、これこそ真実の言葉、相手を思う優しさを持った言葉であると仰せられているのであります。まさに、折伏は相手の幸せを願う慈悲行であります(平成30年4月度広布唱題会の砌)

強言であれ軟語であれ目的は戒壇大御本尊への信心を勧めることですからそこは臨機応変折伏行をしていきたいと思います。今年はまだ折伏成就していなので焦る~(笑)そんなときこそ唱題根本でいきたいと思ってます。

 

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