創価ダメだしブログ

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富士門流の法難③(仙台法難)

先日、仙台の仏眼寺さんに参詣してきたので今日は【仙台法難】の記事を書きたいと思います。

日蓮正宗寺院を訪ねる①【法龍山・仏眼寺(仙台)】 - 創価ダメだしブログ

仙台法難は江戸時代9箇の法難のひとつで明和2年(1765)に日真上人の弟子である覚林房日如師の折伏によって惹起した法難です。日如師は奥州磐城黒須野(現在の福島県いわき市)の生まれで同郷の日因上人との縁で出家得度したと言われます。細草檀林で修学し大石寺に登った時に日因上人が御隠尊されていたので学頭だった日真上人の弟子になりました。日如師が仙台に下向したのは日真上人が学頭時代の仙台巡教の折に信徒の賀川権八の妻が懐妊していて男子が生まれたら上人の弟子にするとう約束をし願い通りに男子が生まれたのでその子の得度の教育の為に日真上人の命により弟子の日如師が遣わされました。因みにこの権八の子供は後の日相上人です。教育が終わり帰山の予定だった日如師でしたが権八の強い要望を受け仙台に残ることになります。そして伊達家重臣の天童家から提供された八幡村に東有台という庵室を建て拠点とし教化を進めました。やがて東有台に人々が通うようになり新寺院の建立が望まれるようになりました。当時は幕府の政策で新寺院の建立は禁じられていたので賀川権八は近隣で廃寺となっていた大石寺末・本道寺の移転復旧の名目で新寺院を建立する計画を立てました。各方面に手を回し協力してもらい藩の役人にも内諾を得ていよいよ願書を提出する段になった時に突如として弾圧が始まります。明和2年3月7日夜に山川平兵衛宅を訪れ読経をしていた日如師が役人の詮議をうけ同夜に仙台郊外・洞ノ口の信徒3名が目付宅に連行され翌8日に日如師・賀川権八中村三郎左衛門が入牢となります。その後、仏眼寺・日浄寺・妙教寺の信徒全員が連行され取り調べを受けます。この知らせを受けた大石寺・日真上人は学頭職であった後の35世日穏上人を仙台に派遣し弟子信徒の釈放の交渉をしますが日真上人が御遷化し日穏上人が帰山すると奉行所はその間隙をぬって9月11日に刑を下します。主な刑罰は、【日如師・田代網地へ近流、天童備前殿・役目解任と一家閉門、中村三郎左衛門・他国追放、富沢惣右衛門(後に退転)・閉門隠居、賀川権八・三郡追放、岩切洞ノ口3名(伊勢屋平兵衛・服部屋五郎衛・石田屋義衛門)一年奴、妙教寺住職日然・隠居】というものです。9月12日に牢を出た日如師は翌日に船で網地島へ送られこの日から27年に及ぶ流罪生活を送ることになります。網地島に送られた日如師は土間敷きの小屋を住居とし流人生活に入ります。島での生活は貧しく冬場は極寒の日々。しかしながら「諸天昼夜影の形に随ふ如く、寒中には暑気の御利益誠に心肝に銘じて有難く、嚢中大虚の如く一銭の貯之無く候。当身堅固眼耳□□身意鉄石の如く、一心魂魄金剛の如く、以諸神通力云云。(中略)御本山、唯仏与仏の御内証御壱人に限るの一大事あり云々。有難くも末葉となりて此上の歓喜有るべきや。」(富要集九巻)との書面に見られるように、そのような生活の中でも唯授一人血脈相承を受けた法主上人の弟子となれた法悦の心境を述べています。仙台に残った信徒も主だった信徒が追放等になり壊滅の危機に瀕しましたが日如師を支えようと貧しいくらいの中から米や味噌、紙、衣などを御供養として送っています。また日如師を慕い島に渡ろうとした信徒には、「未登山輩は老少によらず随分取立候て年々に御登山の願望成就はたさせ申すべき事。登山の面々より其方の功徳広大に候。(中略)島へ渡り候金銭を以て少しも余慶に役立たす候事、何人登山とても島へは渡海は無用に候、只書通を以て申入らるべく候」(富要集九巻)と、島に渡って自分を見舞う金銭があるならば総本山に登山するための費用に充てるようにと総本山への登山を促しています。「登山など不要」といって信徒に登山させないように仕向ける創価・池田、顕正・浅井とは真逆の指導です。日如師こそ正しい大聖人仏法の指導者の姿と言えるでしょう。日如師のこの尊い教化に浴した仙台の信徒たちは実に幸運だったといえます。また流罪先の網地島でも日如師の折伏の炎は消えることなく信徒は増え中でも名主の阿部喜惣右衛門・利喜蔵兄弟は日如師を外護しその後も一族で長く正法を持っていくことになります。寛政三年(1791年)4月22日、日如師52歳の年に27年間に及ぶ流罪が恩赦によりついに赦免になります。赦免になった日如師は妙教寺で少し落ち着き、山川平兵衛の子息である後の日厳上人が住職を務めておられた江戸・常泉寺利喜蔵等を伴って向かい滞在した後に同年七月に総本山大石寺に参詣を果たすことができました。折しも総本山では40世日任上人御代替わり及び霊宝虫払い法要が奉修されていました。こうして日如師は27年余りの時を経て総本山に戻ってきたのです。日如師は総本山で日元上人・日堅上人の御本尊と御影を賜わって下山の後、大杉山・有明寺にも参詣し御影をいただいて奥州に戻っています。その後の日如師は故郷の黒須野・妙法寺の第22代住職を勤めながら有縁の地を巡教して、網地島に要声堂・旭元堂を古川に本寿堂を建立します。文化九年(1812)に網地島に渡り利喜蔵に要声堂を譲ると、翌年の文化10年(1813)10月24日に洞のロ・事光堂にて74歳の尊い生涯を閉じました。遺骨は妙教寺に埋葬されました。以上が【仙台法難】のあらましです。「大石寺の僧侶は法難に逢ったことがない。」などと創価に教えられている創価民さん。日如師の受けた流罪は法難でないなら一体なんなのか?よく歴史を学び創価のプロバガンダを見抜く知識を身に付けてくださいね。

 

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